地域の先輩方を訪ねて〜(後河内地区/中嶋 一郎さん・狭野地区/矢野聖明さん)
後川内地区の道路沿いで、愛らしくピンク色の花を咲かせる芙蓉(フヨウ)の花。
寒くなり始めた時期、すっきりとした晴天の青に映える鮮やかな花を見ていると、何だか元気をもらいますね。
10年前に縁あって手に入れた芙蓉を、挿し木して増やし、大きさを調整・管理しながら育ててきたという中嶋一郎さん。実はある方から「地域の方々にぜひ知ってほしい人がいる」との紹介を受けて取材へ伺ったのですが、ご本人は「大したことねぇよ‥」と謙遜しながらも照れ臭そうに応じてくれました。周辺の草刈り等も自ら手入れし「前はよく空き缶を投げられたりしていたけど、花が咲き始めると、それも無くなった」と話します。
日頃からボランティア精神で、草刈りや田んぼの管理、剪定、畑仕事等‥何でもきちんと丁寧に仕事をされるから、みんなから引っ張りだこの地域の頼れる存在であるイチローさん。
「やっぱりきれいにせんとな!」そうサッパリと言い放つ様子から、普段からテキパキと何でもこなす方なんだろうなぁ‥と大雑把でのんびりした私には尊敬の眼差ししかありません。
好きなことを伺うと「毎日の晩酌が楽しみ。毎朝4時ごろ起きて、その日の弁当と夜ご飯を作って出掛ける。一日中動きっぱなしだから、朝にできることは済ませて、帰ったらコタツに入ってゆっくりするのが楽しみよ」とまたまた清々しいお答え!
その他にも山菜採りや、河川へ行き魚をモリで捕ったり、グランドゴルフを楽しんだり‥と日々やることは尽きません。80歳を目前に活力が衰えることのない、そんなイチローさんのやる気の源は何なのでしょうね?と少し勢い余って聞いてしまうと「‥分からん」との一言でした(笑)
自分の住まいの敷地の管理もままならず、朝4時に起きるなんてできない私からすれば、イチローさんが自然にできることが、とても尊いものに感じます。いつも何気なく人が行き来する道を、ごく自然な気持ちで自ら働き手入れできるのは、心がすっきりと整っている証拠。そして自分の生まれ育った地域を愛する気持ちから‥でしょうね。高原町内には各所に季節ごとに美しく花を咲かせる道がありますが、それはその土地が愛されているということ。
お手入れした人の存在や気持ちを想うと、より一層鮮やかに映り心温まるのでした。
お次は2年前から高原町で新生活を始めた矢野聖明さん。
長年福岡で運送会社を経営していましたが、そろそろ引退してゆっくり過ごそう‥と地元の高原町へ帰ってきました。「食べ物が美味しい、人が良い。身体も健康になった!ここは最高の場所や」と目を輝かせます。
福岡にいた頃は毎月病院へ通い薬を飲んでいた矢野さんですが、帰ってきてからは体重が13kg減り、今では担当医からも“薬いらずの身体になったね”とお墨付きをもらうほどになりました。
「福岡にいた時はカロリーの高い御馳走ばかり食べていたからね。帰ってきて健康になったし、毎日楽しく過ごしている。皆で集まってあくまきやこんにゃく作り、年末に向けて蕎麦汁作りや餅つきも控えているから毎日忙しいのよ」と笑います。
3年前に帰ってきた当初はのんびり過ごそうと思っていたのが、今では福岡と高原の二拠点に運送会社の事務所を抱え、新たにカラオケ店を開業し、自らの経験を生かしてカレーやうどんも販売するなど中々お忙しいご様子です。
矢野さん「地元へ帰ってきたと同時にコロナ禍になり旅行もできず、さてどうして過ごそうか‥と思っていたら自然と人が来るようになって。「あぁ、これをやるために自分は帰ってきたんだな」とピンときたのよ。生きていく上で一番大事なのは人。その次に物・お金やね。物やお金は自分次第・努力でなんとかなるけど、人はそれぞれが違う感情を持ってるから、気持ちや心の距離感が大切になってくるよね。人とのつながりは本当に何にも変えがたい。」
その言葉からは、人とのつながりや関係性が薄くなりがちな日々の中だからこそ、笑顔でいること、楽しいひとときを過ごすことを大切にして、生きる力にしてほしいという矢野さんの気持ちが伝わってきます。
矢野さん「自分が忙しく働いている時期に両親を亡くなってしまったから、何もしてやれなかった。だからこそ地域の人たちに恩返ししていきたいと思っている。何よりも毎日笑顔で楽しく暮らしてもらいたい。誰しもいろんなものを抱えて生きているからね。ここに来る人の顔を見ていると最初は暗い感じだったのが、ぱぁっと明るい表情に変わってくる。ここに来ると楽しいって言ってくれるのが何よりうれしい。そして、その気持ちでまた家に帰ってもらいたいのよね。」
人とのつながりは目に見えないもの‥儚いようで、時にとても心強く、人生を豊かなものにしてくれます。人から信頼を得ることの大切さを、自らの人生や仕事から学んだという矢野さんが作った憩いの場には「元気で、楽しく、良き日でありますように‥」といった言葉が、所々に優しくしたためられていました。
ヨーガ療法士 柴野みどりさん
昨年12月に福岡からご夫婦で移住してきた柴野みどりさん。
ご主人の仕事先の面接を受けに初めて高原町を訪れた際、高速道路を降りてすぐに目の前に広がった高千穂峰の景色を見て「ここに住みたい!」とその瞬間口にしてしまったほど、第一印象から土地の雰囲気に惹かれていたといいます。
元気で快活な印象の柴野さんですが、30代後半の時に癌を発症。その後数年に渡り、病を通じてご自身の身体と向き合う日々が続きます。
柴野さん:「37歳の時に膵臓癌の手術を受けた後、抗がん剤治療を行っていましたが、副作用が強く治療を中止せざるを得なくなりました。西洋医学的治療と共に様々な代替療法を試みていく中で、アーユルヴェーダ、ヨーガ療法との出会いがあったんです。」
当時、偶然立ち寄った自然食品店で開催されていたヨーガ療法の教室に参加した柴野さんは、それまでに味わったことのないような心地よさを感じたといいます。
“この心地よさは一体何だろう?”
その理由が知りたくてその後もヨーガ療法を続けていくと、次第に体力が付き、睡眠の質も良くなり、不安だった心が安定していく…。その変化を身をもって体感したことがきっかけで、自分のような病で苦しんでいる方々にもヨーガ療法を伝えたいという想いが強くなり、ヨーガ療法士の資格を取ることになります。
―ヨーガ療法という言葉は初めて聞いたのですが、一般的なヨガと違うのでしょうか?
柴野さん : 「ヨガというと身体が柔らかい人がカッコいいポーズをとっているというイメージをお持ちではないでしょうか。ヨーガ療法は身体が硬くても大丈夫なんです。伝統的なヨーガを科学的に研究し、病気の方や高齢者など、どなたでも安全に行えるように作られています。各個人に合わせた見立て方により、心と身体の問題に取り組んでいます。そのため個人レッスンが最も効果的ですが、グループレッスンも参加される方に合わせて行っています。私は癌の方の個人レッスン、生活習慣病の方の少人数レッスン、そしてダルク(薬物依存症者の回復施設)でのグループレッスンを行っていましたが、現在ではヨーガ療法を採用する介護施設や医療機関なども増えているようです。」
―そうなんですね。今は家に籠りがちな高齢者の方々も多いし、町内でも必要とされていることなのでは…と思います。 健康でいる為には基本身体を動かすことが大切ですもんね。
柴野さん:「コロナ禍で外出を控える方々の、運動不足やストレスによる心身への影響が問題となっていますよね。私のご近所にも同じような理由で体調を崩されている方がおられ、直接お話しを聞いた時にハッとしたんです、何かしなきゃって。 そのことが高原町の皆様が元気になるような手助けがしたいと思ったきっかけにもなりました。」
ーそうでしたか。そういった方々にもぜひ体感していただきたいですね。ヨーガ療法を通じて柴野さんご自身が一番効果を感じたことは何だったのでしょうか?
柴野さん: 「身体が緩み、心が静まり、元気になったことでしょうか。ヨーガ療法を続けていると、何かあっても落ち込むばかりでなく、それをバネにして乗り越えていくことができるようになってきました。『いいや、今日はもうゆっくりしよう』って思えるようになるんです。『頑張らなきゃ』っていう気持ちに追われていたのが、ふと人に頼めるようになったり、できない自分を認められるようになったことで、生きていく上で心が楽になってきました。
そんな風に物事の捉え方が変わっていったことで、日々の何気ない出来事に幸せを感じられるようになり、暮らしも豊かになりました。
私の場合、更年期障害や、五十肩・腰痛・股関節痛・膝痛なども経験しましたが、ヨーガ療法のお蔭で無事に乗り越えることができたと感じています。これからは健康増進はもとより、ストレスにより心身の不調をきたしている方、病気の方を支えておられるご家族の方が心身共に健やかで幸せな日々が送れるように、ヨーガ療法を通じてお手伝いをさせていただければと思っています。」
今回、私自身も取材前にヨーガ療法を体験したのですが、とても心地よく身体を動かすことができて気分もすっきりしました。そしてそんなに身体を動かした覚えはないのに、翌日になると身体の節々に効いていて(笑)意外と普段、動かせていない部分が多いんだな~と日頃の運動不足を思い知ったわけですが…。そして普段不自由なく動いてくれている身体に改めて“ありがとう”と感謝の気持ちが湧いてきました。
他に参加されていた方も「自分の身体を癒す時間ができて、本当にありがたい」と嬉しそうに話していました。
思い通りに動かせる身体は、何より健康であってのこと。
自らの病を経験してそのことを実感した柴野さんのヨーガ講座は、とても丁寧な指導の元で、優しい雰囲気に包まれていました。きっと誰でも、気づかないうちに身体に無理させてしまっていることがあるかと思います。時々自分の身体と対話し、心身ともに癒す時間をつくることが、より健康で豊かな日々を送る秘訣かもしれませんね。
オレンジカフェ/ボディ&フェイスケア美香
高原町には、認知症の方々やそのご家族、地域の方々など誰もが集える「オレンジカフェ」という場が2カ所(広原・狭野地区)設けられています。
オレンジカフェの発祥は、オランダのアルツハイマーカフェと言われており、元来はノーマライゼーション(障がいがあることや高齢であることなどの特徴を持つ人も、その人らしくともに社会で生きられることを実現させるという考え方)を目指したものです。
そして現在、日本では高齢化社会が進むと同時に認知症と診断される人も年々増えています。従来は病院や施設を利用せざるを得ないという方針でしたが、現在では「認知症になっても本人の意思が尊重され、できる限り住み慣れた環境で暮らし続けることができる社会の実現を目指す」という流れに方針が改められました。
そのため、認知症の方やそのご家族の話を聞いたり、悩みを打ち明けたりできる場の一環として、各地域で取り組みが行われています。
今回は狭野地区にあるオレンジカフェへお邪魔しました。元々介護の仕事をしていた倉住美香代さんが月1回、水曜日の午後(14時~16時)に開いています。
主に「回想法」を使っての会話がメインになりますが、皆さんお茶を飲みながら会話に花を咲かせ、とても和やかな雰囲気。ふらっと誰でも参加できるような気軽さが心地良く、あっという間に時間が過ぎていきます。ここでは現在〝認知症予防〟ということで、主に60代~80代の方々が参加されているようです。
倉住さん「認知症の方やご家族の方々ともお話出来たらいいのですが、現在はまだ出来ていないですね。一日のうち誰かと少しでも話す時間を少しでもつくらないと…。こういう集まりの場を設けて、お茶を一杯飲むだけでも違うと思うんです。本当に一日中一人でいたら認知症になっていってしまう。人と触れ合わないことで発症するものなんですね。いくらスマホやテレビ電話をするといっても、人の温かみやエネルギーみたいなものを直に感じることはできませんよね。“生の声を聴く”そして、その人の存在を感じることが一番大切だと思います。」
ここ数年は特に流行り病の影響もあり、人とのつながりが薄れがちな日常があります。そんな中だからこそ、こういう場に少しでも足を運ぶことで、気分転換や出会いのきっかけになるかもしれません。そして美香さん自身の経験から「介護する側の方々にも癒しを届けたい」とリンパマッサージとエステをメインにしたお店をオープンされました。
倉住さん「自分がケアマネージャー(介護支援専門員)をやっていた経験から、精神的な疲れなどの癒しができたらいいなと思って、リラクゼーションの仕事を始めました。女性はやっぱり…年齢と共にしみ・しわは気になるしね。若いうちから自分の体を大切にしとかないと、後々ひずみがでてくるし、年齢を重ねていくほど元気でいないと!子どもが手を離れてからこそ、家族のためにも楽しくやっていきたいもんね。」
現在57歳だという倉住さんの若々しさにビックリしていると「まぁ~うれし!ありがとう~」とカラっとした笑顔を見せてくれました。介護関係の仕事を通じて、今まで沢山の病気の方、そのご家族含めて接してきた経験があったからこその、“癒しの仕事”をしたいという気持ち。人のために何かをしたいという純粋な想いから施される癒しのエネルギーに触れて、周りの人達もきっと元気をもらうに違いありません。
“生の人の存在を感じる” このことは、人との距離を取りがちな日常になって私も改めて気づいた大切なことでした。身近な人達に改めて感謝を想い、自分も「会うと元気になれるような人」でいたいな~!と思ったのでした。
えがおリレーvo.15 山口 海莉くん
今回は、前回ご紹介いただいた山口さんの息子さん、山口海莉くん(7歳)です。
ピンポーンとご自宅のチャイムを鳴らすと、はーい!と恥ずかしそうな様子で出迎えてくれました。お母さんと一緒に、こちらのお話に付き合ってくれた海莉君は、何だかキンチョーした様子。そりゃ~急に来た大人に色々聞かれても困るよねぇ!(笑)
学校は楽しい、友達と遊ぶのが好きだという元気いっぱいの男の子。
お父さんにスケボーを教えてもらっていて、日の長い夏時期は、仕事帰りのお父さんと夕方から滑りに出掛ける日々だったそう。
お父さんと日頃から一緒に楽しく身体を動かせるなんて、素晴らしいことですね。
「カイリくんの名前を書いてくれる?」とお願いすると、書き順が間違ってるかも…と急にもじもじ。書いてる途中で「…。ちょっと漢字ドリル取ってくる!」と席を立とうとする、まじめな一面も(笑)
『り』の漢字はまだ書けないといいつつも、しっかりした文字で書いてくれた海莉君。
お母様に名づけの由来を伺うと、「広い心をもって、誠実な人に育ってほしい」との願いが込められていました。学校帰りはいつも友達と寄り道しながら帰宅し、5歳の妹とおもちゃの取り合いでケンカしたり…と、すくすく元気いっぱいに日々を過ごしている様子です。
大人になってやってみたいことは…“うーん、考え中かな”と、はにかんだ笑顔を見せてくれました。これからもご家族の愛に見守られて、楽しい未来を描いていってね!
NPO法人 咲桃虎(さくもんと)
高原町広原地区に拠点を持つNPO法人咲桃虎は、殺処分される犬猫の保護活動をしている団体です。代表理事である山下香織さんは、本業である美容室を営業しながら犬猫のお世話やレスキュー(犬猫の引受け)に各地へと走る多忙な日々を送っています。
ことのきっかけは14年前、当時山下さんが住んでいた東京の職場近くにあったペットショップにいた一匹の犬との出会いでした。長らく売れ残ってしまいブリーダーに返されるところを、自らが引き取ったことを機に、ペット業界の仕組みを調べ始めたといいます。
山下さん:「地元に帰ってきて、犬が欲しいという知人が保健所に連絡した際に“犬はいません”と言われていたけど、その背後でワンワン聞こえていた。今となって分かるのは、“譲渡できるような犬がいない”と言う意味だったんです。それから少しずつ保健所に通うようになり、餌を寄付したり犬小屋の掃除を手伝ったりしていきました。
保健所側は譲渡後のフォローまでできないから、飼いやすい子しか譲渡しないんですね。難しい子(吠える・噛む・大型犬)から結局殺処分になっていく。そういう子達を救わない限り、殺処ゼロにはならない。じゃ自分がそういう子達を引き取ろうという気持ちになり、犬の特性を勉強しながらトレーニングをしていきました。
噛みつく理由は主に恐怖心からなんです。とりあえずそっとしておくことから始めて、少しずつ声かけしながら人との生活に慣れさせていく。【怖かったら私の後ろに隠れなさい】ということを長期戦で教えていったりもしています。噛みつかせないように人間がコントロールしていくことで、心が整っていくんですね。」
毎週各地へレスキューに向かうという山下さん。
九州県内はもちろん、去年は岡山や島根まで。そして奄美まで救出しに行ったという犬は、ゲージの中で小さな身体をブルブル震わせていました。元々犬猫に対する思いが強かったのですか?と聞くと「全然フツーです。普通に捨犬とかいたら拾って帰りません?よく拾って母から怒られていました(笑)」との返事。自然な流れでその時々の物事に向き合っていたら、いつの間にかこうなっていたと話します。
いつも自分に置き換えて考えている
山下さん:「昔は保健所職員さん達とよくケンカしてました(笑)生き延びさせようという気持ちが少ないように感じて。けど今ならあの人達の気持ちもわかるんです。処分になる動物たちに情をかけると辛くなりますよね。
保健所に自らの飼犬を連れてくる人もいるんですよ。老犬になり夜鳴きがひどいとかの理由で。そういう人間もいるから、ただ動物達の命を救っていくだけではいたちごっこだなと。飼う人間の方もどうにかしていかんといかんと思って。人を変えるのは難しいけれど、時代が変われば人の意識も変わってきたりしますよね。そして先に子ども達の意識を変えれば、大人たちの意識も変わってきたりするから、啓発活動にも力を入れているところです。
私はいつも自分に置き換えて考えてしまうんです。自分だったら辛い、嫌だとかね。だから譲渡先に連れて行っても、ここには置いて帰れないと思うような環境であれば、そのまま連れて帰ります。もちろんもらってほしいんだけど、一番はこの子たちに今より幸せな生活を送ってもらいたいから。」
毎週日曜日には咲桃虎での譲渡会を行い、数え切れないほどの命を救ってきていますが、譲渡されない犬猫は常時100匹を超えており、猫は家一軒分ボランティアの方が住込でお世話しているのが現状です。
「近所の方々にも迷惑をかけていると思うけど、目をつむってくれているので有難い。咲桃虎で一緒に協力してくれる人達も、犬猫のために純粋に、自分が出来ることを進んでやってくれている。それぞれが互いにフォローし合えているからこそここまで活動できている。」と山下さんは話します。
人も動物もおんなじ。家族として最後の時まで一緒にいてほしい。
山下さん:「特に相手が生き物だし、何でもそうですが、教科書通りには全然いかないし、動物が好きというだけでは続かない。まずは犬の糞を拾って、掃除して。ここにくる子達は難しい子が多いから、どうしてあげたらいいのかという事から始まります。
ペットを飼う際は、もしいなくなったら必ず探してほしいし、増やせないのであれば避妊去勢手術をし、最後の時まで家族として一緒にいてほしいです。婆ちゃんたちも『最後は家で死にたい』って言うでしょ?人とおんなじで、どんな子でも家が好き。つながれっぱなしは嫌だし、散歩にも行きたいしね。」
昔はよく捨てられていた犬猫も、最近は減ってきているそうです。捨てる行為が犯罪にあたると周知され、飼う人のモラル・意識が上がってきているのを感じるといいます。
山下さんの今の夢は「猫の自然保護施設を作ること。サファリパークみたいな!」
終始明るく元気に話す様子を見ていると、きっと実現されるだろうという気がしてきます。命との向き合い方…様々な考えもあるし、綺麗ごとではいかないこともあります。けれど普通なら目をそらしたくなるような現実に、真正面から向き合い行動されている姿は、闇に射す一筋の光のように眩しい。こんな世の中だからこそ、目に見えないものを大切に。心を失わずに生きていきたいと思うのでした。
農家民泊 sanofarm
狭野神社近くの民家でひっそりと営まれている農家民泊『sano farm』
入口から小道を抜けた敷地内には果樹や畑があり、鶏や猫も一緒に暮らしています。
空き家だった築90年の古民家に、Uターン移住者であるオーナーの宮村友美さん(高崎町出身)が少しずつ手を加えていきながら暮らしており、家の一角には宿泊者用のゲストルームが設けられています。
「ここに来た当初は、室内にテントを張って暮らし始めたの(笑)」カラッと笑いながら話す友美さんですが、家を修繕しながら寒さに凍える夜もあり…と、中々エネルギッシュな女性です。
中学生の時にアメリカへのホームステイに参加したことがきっかけで、外国語を学べる大学へ進学・卒業し、翻訳の仕事を始めていた友美さんでしたが、当初から起業して自然の中で自由に暮らしたいという未来を描いていたと言います。その想いの元となったのは、御池少年自然の家で毎年行われていた夏休みのキャンプ体験でした。
友美さん:「子供の頃はシャイで学校が大っ嫌いだったんだけど、御池少年自然の家にキャンプへ行きはじめてから変わったかな。毎回知らない子達とグループ組んで…すごく楽しかった。本当は自然の家の先生になりたいと思ってたくらい!自然や子どもの教育に関わることにずっと憧れがあった。
民泊に興味を持ったのは、海外旅行したときの楽しい体験がベースにあったから。いろんな人たちと交流できて、語学も生かせると思ったし、ホームステイ感覚で滞在できることに魅力を感じた。ニューヨークへ行ったときにお世話になった宿泊先のオーナーが舞台女優さんで、大好きなブロードウェイの舞台裏を案内してもらったりして…その時は本当に感動して大きなインパクトを受けた。」
語学も学び、海外旅行も大好きで、ニュージーランドに行くビザまで取っていたそうですが、最終的には地元に戻る選択をした友美さん。その理由は何だったのでしょうか。
友美さん:「少し迷ったんだけど、1~2年海外に行ったからとはいえ、結局は部外者。ただ行って帰ってきても“語学が上達してよかったね”で終わるし、相当な覚悟や何かを習得する意志がないと行く意味がないと思った。
旅行も沢山したんだけど、ある種のむなしさというか…結局私は部外者で、ここにずっといられるわけじゃない。やるならホームでやりたいという気持ちがあった。
けれど、まるまる地元でやるのは嫌で、都城市も既に色々やっている人がいるだろうなと思い、小さい頃から親戚とよく遊んでいた高原町で拠点探しを始めた。
高崎町は都城に吸収されたけど、高原町はそうならず、独自の町としてやっていく覚悟があるんだろうなと感じたし、コンパクトな町だからこそ自分もその流れに参加できそうな雰囲気があったから選んだ。」
そうした中、高原町で拠点となる古民家を見つけて、まずは家のリフォームから始めた友美さん。在宅で翻訳の仕事を続けながら、着々と家を整えていき、高原町での暮らしにも慣れてきて、いよいよ農家民泊sanofarmをオープンさせる運びに至りました。
友美さん:「民泊がやっとスタートできたから、せめて週一位はお客さんに来てもらえたらいいなと思っている。中学生の宿泊体験の受け入れもすごく楽しくて刺激を受ける。みんなすごく可愛いし賢くてね。大人しい子ほど、実は静かに感動してくれてたりするのよね。そんな子が最終日には踊ってたりするから(笑)先生たちも“こんな一面のある子だったんだ~”って驚いていたり。後に子ども達からお礼の手紙をもらった時はすごくうれしかった。霧島周辺の土地には幼い頃から思い入れがあるし、自然が好きで、山登りも大好き!そんな自分の好きな場所や想いを今後も発信したいと思っているし、民泊を利用してくれるゲストさん達とも共有できたらいいなと思ってます。」
会話の中で、「色んなことにすぐ影響を受けるの」と言っていた友美さんでしたが、御池でのキャンプ体験、アメリカでのホームステイ体験…その他様々な日々の経験をちゃんと糧にして前進している様子が伝わってきて、自分らしい人生を真っ直ぐに突き進んできたのだろうな~という清々しさに溢れた女性でした。人と会うのが好き、話すのも大好きだという彼女の言葉にはユーモアが散りばめられていて、民泊に来た人達はきっと楽しい時間を過ごせるはずです。今後もこの場所でたくさんの素敵な思い出が生まれることでしょうね。
えがおリレーvo.14 山口 廣大さん(山口鉄筋)
たかはるで日々暮らしをいとなむ人々。
その人生やありのままの姿をリレー形式で伝えていきます。
今回は第14回目、山口廣大さんです。
高原町内で唯一、鉄筋を扱う仕事を請けている「山口鉄筋」の山口廣大さん。
高原町で生まれ育ち、東京で料理人の経験を得た後に、実家の家業である仕事を受け継ぎました。
鉄筋の仕事とは、いわゆる建物を支える頑丈な骨組みをつくること。人間でいうと骨の部分で、外からは見えませんが、なくてはならない大事な基礎の部分を造るお仕事です。
“何もなくつまらない”そう感じて一度は出た地元でしたが、外へ出たことで見えてくる景色もあります。今では実家の家業を継いで、家族を養う一家の大黒柱。育ち盛りのお子さん二人を連れて休日にキャンプ等を楽しむようになってから、地元の良さが分かってきたと話します。
そして現在は高原町商工会青年部部長も務め、町内のごみ拾いやイベント運営にも勤しむ日々。今年は毎年恒例の夏まつりが2度延期され、開催自体が危ぶまれましたが、まさに3度目の正直である12月に無事開催されました。コロナ禍による影響で出店・飲食禁止でしたが、子ども達へのクリスマスプレゼントや盛大な花火が企画された素晴らしいお祭りとなりました。
以下、まつり高原を終えて山口さんから頂いたコメントです。
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今回の「まつり高原」にご来場頂いた町内の方々、誠にありがとうございました。
また、「まつり高原」関係者の方々にも心より感謝申し上げます。
いろんな方から「よかったよ!」「キレイだった!」「花火デケェ!」とのお声を頂いて、辛い事もありましたが本当にやりきってよかったなと思います。
私自身もたくさんの方にご迷惑をかけ、たくさんの方にご支援、ご協力を頂き伝説の「第53回まつり高原」になったんではないかと自負しております。
来年も楽しみにして頂けたらと思います。
皆さん本当にありがとうございました。
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高原町民限定で行われた「まつり高原」。私自身も子ども達を連れて出向いたのですが、冬の寒空の下、広いグラウンドの芝生の上に座り、静粛な雰囲気で見上げた花火は特別に美しいものでした。
真夏にうちわ片手に夜空を仰ぐ花火が恒例ではありますが、また一味違った新鮮な雰囲気で楽しむことができた真冬の花火。きっと皆さんの心にも、良い思い出として刻まれたことでしょうね。
次回のえがおリレーは…山口さんのお子さんをご紹介いただきました。なんだか面白い展開になりそうな予感でワクワクです。どうぞお楽しみに!