霧島東神社
霧島東神社は霧島山の麓、御池を望むことのできる高台にあります。
伊邪那岐尊(イザナギノミコト)・伊邪那美尊(イザナミノミコト)を主祭神として祀り、第十代崇神天皇の代に霧島山を信仰の対象とする社として創建されたと言われています。そして高千穂峰の山頂にある《天の逆鉾》が神社の社宝として祀られています。
鳥居をくぐりご本殿へと続く石段の参道を上がるごとに
森のしっとりした気配に包まれ、心が鎮まっていくのを感じます。
今回は霧島東神社の宮司である、黒木さんにお話しを伺いました。
―神社のことについて、お話を聞かせて下さい。
黒木さん:昔、神社が出来る前の日本人の中で、人間がどうこうすることのできない存在を神としていました。いわゆる自然、山・太陽・月・滝…。災害も含めて人間よりエネルギーの優るもの、人間が敵わない存在のことです。霧島山もそうですし、平家物語のくだりで「煙絶やさぬ岳」と表現されている新燃岳も、昔はどんどん噴火していました。
それを麓の住民は「あれは神様がお怒りなんだ」と恐れたり、田んぼの水も山から流れてくるものだからと感謝していたわけです。そういう時、皆がそれぞれの場所で手を合わせて祈っていたのですが、やっぱり拝む場所が欲しいよね、家建ててここで拝もうか…というのが大体山の麓にある神社の大元の起源なんですよね。
―拝むという行為がまず先にあって、その対象として後に神社が建てられたのですね。
黒木さん:そう、場所ができたんです。霧島山も“この山は私たちの神様だ…”と各方向からバラバラに拝んでいたのですが、平安時代に京都から性空上人というお坊さんが霧島山へ修行に来て、当時6箇所ほどあった各神社の横にお寺を造り【霧島山というのは、神様と仏様を一緒に祀る修行の山ですよ】という風に整えていったそうです。
本殿の奥には修験道へと入る入口が構えられています。
宮司という役職ができたのも、明治時代以降からです。
それまでは山伏さん達が神社を守っていました。その間御鉢の噴火で神社・お寺が焼けてしまい、何も無かった時期もあるんですが、また建て直し…。性空さんが入り、霧島修験というのが出来て、明治の廃仏毀釈という運動が起こるまではずっと続いてきていたということです。
ここの名称も明治までは《霧島六社権現 東御在所之宮》という神社でしたが、権現という言葉も駄目だということになり《霧島東神社》となったわけです。
お寺さんも仏像も無くなりましたが、今でも「霧島山は、神様と仏様の山なんだってね」といわれ、そういう信仰でお参りに来られる方も多いです。
今でこそ神社には観光客なども含め沢山の人が来られますが、僕が子供の頃は参拝者も少なく、たまに見かけると「この人なんか怖いな、異様だな…」と感じるほど一生懸命に拝んでいました。どっちがいい・悪いはないんですが、大切な部分が希薄になるのはどうなんだろう…とは思います。
―難しいですよね。神社は変わっていないわけで、世の中が変わっているだけですもんね。
黒木さん:そうですね。今の時代、ネットとかで複雑に絡まってはいるんだけれども、でも何となくさみしい…ですよね。知り合いは沢山いても人間関係は希薄になっていって、身近にたわいもない話や相談のできる人もいなかったりする。自分の心を自分で整理しなきゃならないとなれば、こういう場所はいいのかもしれません。
最近はパワースポットとかスピリチュアルだとかで、全国的にも若い参拝者の方々が増えています。そういう方達とふと神社のことなどを話す機会があるんですが、何というか…素直に理解するんですよね。否定しない、ポジティブな反応をするんです。
話して分かるかな…?ということが意外と相手にヒットしていたりして。あぁ、こういうことを求めていたのね、と分かるんです。来るきっかけはパワースポットだとしても、帰るころには「神主さん、神社ってなんかいいですね」っていう人がいたりするのは、それまでとは何か違うものを見出したってこと。それはどこかで求めているということですから。今から変わってくると思いますよ。
よく“ここの神社はどんなご利益があるの?”と聞かれます。
色々な神社があるので、そういう風に考えるのは悪くないんですけど、ここの神社は山伏さん達が修行をしていた場所で、元々頻繁に参拝者がきていたわけではないんです。
なのでここに来た方は、難しい祝詞や作法はいいから神様の前で手を合わせて、心と頭がごちゃごちゃしていることも全部、神様の前で打ち明けて片づけていってもらいたい。引き出しじゃないですが、きれいに片づけたらスペースが出来るように、心にね。そこに神様からもらえるんじゃないですか…という話もたまにします。ここがそういう神社であったら、うれしいなと思います。
黒木さん、ありがとうございました。
【霧島東神社】
TEL (0984)42-3838